毎日何気なく利用している緑の電車、山手線。しかし、その歴史を紐解くと、今の姿からは想像もつかないような「昔」の姿が浮かび上がってきます。
実は、山手線は最初から丸い環状線だったわけではありませんでした。 開業当初は全く違う名前で、蒸気機関車が走り、今とは異なるルートをたどっていたのです。 車両の色も、今やおなじみのウグイス色になるまでには様々な変遷がありました。
この記事では、「山手線 昔」というキーワードを元に、知っているようで知らない山手線の奥深い歴史の世界へご案内します。懐かしい車両の数々、変わりゆく駅の風景、そして環状運転が実現するまでの道のりなど、明日誰かに話したくなるような情報が満載です。昔を知れば、毎日の通勤・通学で見る山-線の景色が、きっともっと面白くなるはずです。
山手線の昔を探る!環状運転までの長い道のり
今では当たり前のように都心をぐるぐると回り続ける山手線ですが、その歴史は一直線ではありませんでした。東京の発展と共に形を変え、延伸を重ねて、ようやく現在の環状運転の姿になったのです。ここでは、山手線の「原型」の誕生から、象徴的な環状運転が始まるまでの歴史を振り返ります。
山手線の「原型」が誕生した日
山手線の歴史の始まりは、1885年(明治18年)3月1日にさかのぼります。 この日、民営鉄道会社の日本鉄道が、品川から赤羽を結ぶ路線を開業させました。 しかし、その名前は「山手線」ではなく、「品川線」でした。 当時の目的は、官設の東海道線と、日本鉄道が運営する東北線を結ぶ連絡線としての役割でした。 当時、東海道線の始発駅は新橋、東北線の始発駅は上野と離れており、両線を接続する必要があったのです。
開業当初の駅は、品川、渋谷、新宿、板橋、赤羽のわずか5駅。 今のように多くの駅が連なる路線ではありませんでした。もちろん、走っていたのは電車ではなく、煙を上げて走る蒸気機関車です。 そもそもは貨物輸送を主な目的として建設された路線であり、旅客輸送はどちらかというとおまけのような存在だったようです。 東京の西側、いわゆる「山の手」エリアを走るこの路線が、後に日本の大動脈「山手線」へと発展していくとは、当時は誰も想像していなかったかもしれません。
「の」の字運転の時代
品川線として開業した後、路線は少しずつ延伸を重ねていきます。1903年(明治36年)には、池袋と田端を結ぶ「豊島線」が開業しました。 これにより、品川から伸びてきた線路と、東北線の一部がつながり、後の環状運転の基盤が形成されていきました。そして1909年(明治42年)、これらの路線が統合され、正式に「山手線」という名称が誕生します。この年には電化も完成し、蒸気機関車に代わって電車が走るようになりました。
しかし、この時点ではまだ完全な環状線ではありませんでした。電車は烏森(現在の新橋駅付近)から品川、新宿、池袋、田端を経由し、そこから東北本線に入って上野、東京、そして新橋へと戻る「の」の字を描くようなルートで運転されていました。 都心の東側、特に東京駅と上野駅の間がまだ線路で結ばれていなかったため、このような変則的な運転形態となっていたのです。 この「の」の字運転の時代は、完全な環状線へと移行する過渡期の姿であり、東京の鉄道網が発展していく過程を象徴しています。
ついに実現!環状運転の開始
これまで未接続だった神田駅と上野駅の間に高架線が開業し、山手線の線路が一つにつながったのです。 これにより、品川線開業から40年の歳月を経て、現在のような環状運転が始まりました。
この環状運転の開始は、東京の交通網にとって画期的な出来事でした。都心部の主要な駅が一本の線で結ばれたことで、人々の移動は格段に便利になりました。新宿、渋谷、池袋といった副都心と、東京、上野といった既存の中心地が有機的に結びつき、東京全体の発展を力強く後押しすることになります。 2025年には環状運転開始から100周年を迎える山手線。 その円環の歴史は、この大正時代の一大プロジェクトから始まったのです。
懐かしの車両たち!時代を彩った山手線の顔

山手線の歴史は、車両の歴史でもあります。茶色い木造の電車から、おなじみのウグイス色、そして最新鋭のスマートな車両まで。それぞれの時代の技術や社会の要請を反映した個性豊かな車両たちが、東京の風景を彩ってきました。ここでは、人々の記憶に残る歴代の代表的な車両を振り返ります。
茶色い旧型国電の時代
環状運転が始まった頃から戦後にかけて、山手線を走っていたのは「旧型国電」と呼ばれる茶色い電車たちでした。 例えば、国鉄初の半鋼製車体(骨組みが鋼鉄で、内装などに木材を使用した車両)である30系・31系などが活躍していました。 外観のデザインは木造車両の面影を残しており、どこか温かみのある雰囲気が特徴です。
これらの車両は、今日の電車のように編成が固定されておらず、様々な形式の車両が連結されて走っていました。窓の配置やドアの数もまちまちで、今の標準化された電車とは大きく異なります。乗り心地も決して快適とは言えず、モーター音は大きく、夏は暑く冬は寒いのが当たり前でした。しかし、この茶色い電車こそが、戦後の復興から高度経済成長期にかけての東京を支え続けた功労者なのです。多くの人々を運び、日々の暮らしを支えたこの車両たちの姿は、当時の東京を知る世代にとって、懐かしい思い出として心に刻まれています。
「ウグイス色」103系の登場と活躍
1963年(昭和38年)、山手線の歴史を大きく変える車両が登場します。それが103系電車です。 この車両の最大の特徴は、その車体色。現在まで続く山手線の象徴、「ウグイス色(黄緑6号)」が初めて採用されたのです。 これ以降、「丸い緑の山手線」というイメージが定着していきました。
103系は、高度経済成長期の爆発的な通勤ラッシュに対応するために開発された「新性能通勤形電車」の決定版ともいえる車両でした。経済性を重視した設計で、大量生産が可能なことから、山手線だけでなく首都圏の様々な路線に投入され、国鉄を代表する通勤電車となりました。山手線では約25年間にわたって主力車両として活躍し、多くの人々の足となりました。 シンプルで角ばったデザイン、大きな窓、そして何よりも鮮やかなウグイス色の車体は、多くの人の記憶に「山手線といえばこの電車」というイメージを強く焼き付けました。2013年には、このウグイス色の山手線登場50周年を記念し、E231系に103系をイメージしたラッピングが施されたこともありました。
ステンレス車両205系の衝撃
1985年(昭和60年)3月25日、国鉄分割民営化を目前にした山手線に、新たなスターが登場します。 それが、軽量ステンレス車体を採用した205系電車です。 これまでの鋼鉄製車両と違い、銀色に輝くステンレスの車体は、人々に未来的な印象を与えました。塗装が不要なためメンテナンスコストを削減できるという大きなメリットもあり、国鉄最後の量産型通勤電車として開発されました。
205系のデザインは、それまでの角ばった103系とは一線を画す、すっきりとしたモダンなものでした。ウグイス色のラインカラーは帯として窓下に配置され、軽快なイメージを強調。車内も快適性が向上し、新しい時代の到来を予感させました。 1991年には、激化するラッシュに対応するため、世界でも珍しい6つのドアを持つ車両(6扉車)が試験的に導入され、その後本格採用されるなど、輸送力増強にも貢献しました。 国鉄からJRへと時代をまたぎ、平成の山手線を支え続けた205系は、2005年に後継のE231系にその役目を譲り、山手線から引退しました。
E231系、そして現代へ
2000年代に入り、山手線の顔となったのがE231系500番台です。205系の後継として登場したこの車両は、「走るんです」とも呼ばれた209系などで培われた技術をさらに発展させた、JR東日本の標準型車両です。 これまでの車両と比べて車体幅が広げられ、定員が増加。また、情報化社会に対応し、ドア上には液晶ディスプレイ(トレインチャンネル)が設置され、ニュースや天気予報、運行情報などを提供するようになりました。
そして現在、山手線の主力として活躍しているのがE235系です。 2015年にデビューしたこの車両は、これまでのE231系のデザインを一新。 「お客さま、社会とコミュニケーションする車両」をコンセプトに、スマートフォンのような縦長のデジタルサイネージを窓上やドア横に多数配置し、情報提供能力を大幅に向上させました。 外観も、ウグイス色のラインをグラデーションにするなど、先進的なデザインが採用されています。興味深いことに、E235系の一部編成には、先代のE231系から改造された車両が1両だけ組み込まれており、新旧の技術が融合している点も特徴です。
駅の風景も様変わり!昔の山手線の駅と街
電車の進化とともに、駅の姿も時代を映して大きく変わってきました。木造の小さな駅舎から、巨大なターミナル駅へ。手作業だった改札から、自動改札へ。駅の風景の移り変わりは、そのまま東京の発展の歴史と重なります。昔の山手線の駅に思いを馳せてみましょう。
木造駅舎が多かった時代
今でこそ近代的なビルに建て替えられた駅が多い山手線ですが、昔は趣のある木造駅舎が多く存在していました。 例えば、鶯谷駅の南口には今も昭和2年建築の木造駅舎が残っており、都心の駅とは思えないレトロな雰囲気を醸し出しています。 また、2020年までその姿を見せていた原宿駅の旧駅舎(大正13年建築)も、多くの人に親しまれた木造駅舎の代表格でした。
昔の駅舎は、今のような商業施設が併設されていることは少なく、純粋に列車の乗り降りのための場所でした。駅前には小さな商店が軒を連ね、人々が行き交う、どこか人間味あふれる空間が広がっていました。新宿駅や渋谷駅なども、今のような巨大で複雑な構造ではなく、もっと小規模でシンプルな駅でした。 昭和30年代、40年代の写真を見ると、駅舎の佇まいだけでなく、駅前の風景や人々の服装などからも、当時の空気感が伝わってきます。
山手線の駅で最も古い歴史を持つのは品川駅です。 1872年(明治5年)の日本の鉄道仮開業時に、品川~横浜間で営業を開始したのが始まりです。
自動改札機がなかった頃の改札風景
今では当たり前の自動改札機ですが、これが普及する前の改札は、駅員さんが手作業で行っていました。乗客は一人ひとり、駅員さんに切符を見せ、ハサミ(改札鋏)で「カチッ」と切れ込みを入れてもらってホームに入りました。降りる時も同様に、駅員さんに切符を渡して改札を出ます。ラッシュ時には改札口に長い列ができ、駅員さんたちは驚異的な速さで切符を処理していました。
山手線に自動改札機が導入され始めたのは、1990年(平成2年)のことです。 当初は一部の駅への設置から始まり、徐々に全駅へと拡大していきました。 関西地方では比較的早くから導入が進んでいましたが、相互直通運転が多い首都圏では、各社の規格統一などの課題があり、導入が遅れていました。 自動改札機の登場は、駅の風景を一変させました。改札業務の効率化はもちろん、磁気カード「イオカード」などの登場を促し、現在のSuicaなどのICカードシステムへとつながる礎を築いたのです。
| 年代 | 出来事 |
|---|---|
| ~1980年代 | 駅員による有人改札(改札鋏を使用) |
| 1990年 | 山手線内の一部の駅で自動改札機の使用が開始 |
| 1991年 | 磁気式プリペイドカード「イオカード」が登場 |
| 2001年 | 非接触型ICカード「Suica」が登場 |
懐かしの駅名看板と広告
昔の駅のプラットホームには、今とは違うデザインの駅名看板が掲げられていました。国鉄時代には、白地に青い文字で書かれた、独特の丸みを帯びた書体(すみ丸ゴシック)のホーロー製看板が主流でした。隣の駅が矢印で示されているだけのシンプルなデザインですが、この看板に郷愁を感じる鉄道ファンは少なくありません。
また、駅や車内に掲示される広告も時代を映す鏡です。昔はタバコやお酒の広告が多く見られましたが、時代と共に規制が厳しくなり、今ではほとんど見かけなくなりました。週刊誌の中吊り広告も、かつては車内の風物詩でしたが、スマートフォンの普及などによりその役割を終え、減少傾向にあります。駅の広告を注意深く見てみると、その時々の社会の流行や価値観の変化が見えてきて非常に興味深いものです。
新駅「高輪ゲートウェイ駅」の誕生
山手線の駅の歴史において、忘れてはならないのが新駅の誕生です。2020年3月14日、品川駅と田町駅の間に「高輪ゲートウェイ駅」が開業しました。 山手線に新しい駅ができるのは、1971年(昭和46年)の西日暮里駅以来、実に49年ぶりのことでした。
建築家・隈研吾氏が設計を手がけた駅舎は、折り紙をモチーフにした大きな屋根が特徴的で、未来的なデザインが大きな話題を呼びました。駅名の公募が行われたことでも注目を集め、最終的に「高輪ゲートウェイ」という名前に決定しました。この新駅の誕生は、長年変わらなかった山手線の風景に新たな1ページを加えました。駅周辺の再開発も進んでおり、これから東京の新たな玄関口としてどのように発展していくのか、多くの期待が寄せられています。この駅の誕生は、山手線が過去の歴史を大切にしながらも、未来に向けて進化し続けていることの証と言えるでしょう。
昔の山手線にまつわるトリビアと豆知識
山手線の歴史を深掘りすると、面白い事実や意外な豆知識がたくさん見つかります。運賃の移り変わりから、今では考えられないような列車の運行まで。知ればもっと山手線が好きになる、そんなトリビアをご紹介します。
運賃はいくらだった?初乗り運賃の変遷
今ではICカードで気軽に利用できる山手線ですが、昔の運賃はどのくらいだったのでしょうか。運賃の変遷を追うと、日本の経済の動きが見えてきます。JR東日本が発足した1987年(昭和62年)当時、山手線内の初乗り運賃は120円でした。その後、消費税の導入や税率改定に伴い、130円、140円と段階的に引き上げられてきました。
当たり前のように利用している鉄道も、その裏では様々な経済的な要因が影響していることがわかります。昔の切符をもし持っている方がいれば、その値段を見て当時の物価に思いを馳せてみるのも一興かもしれません。
女性専用車両はいつから?
現在、平日の朝ラッシュ時に運行されている山手線の女性専用車両。痴漢などの迷惑行為防止を目的として導入されていますが、その歴史はいつから始まったのでしょうか。首都圏のJR線で初めて女性専用車両が本格的に導入されたのは、2001年の埼京線でした。その後、痴漢対策への社会的な関心の高まりを受け、他の路線へも拡大していきます。
山手線で女性専用車両の運行が開始されたのは、2005年4月のことです。当初は平日の朝夕ラッシュ時に設定されていましたが、その後、朝ラッシュ時のみの運行となり現在に至ります。車両のステッカーの色が路線によって違うなど、細かな違いはありますが、今では通勤風景の一部としてすっかり定着しました。女性が安心して鉄道を利用できる環境づくりの一環として始まったこの取り組みも、山手線の比較的新しい歴史の1ページと言えます。
実は貨物列車も走っていた?
「山手線は旅客列車専用」と思われがちですが、実は昔、山手線と並行して走る「山手貨物線」という線路があり、多くの貨物列車が走っていました。 そもそも山手線のルーツが、東北と東海道を結ぶ貨物輸送のための連絡線だったことからも、その重要性がうかがえます。 高度経済成長期には、首都圏の物流を支える大動脈として、1日に200本以上の貨物列車が行き交うこともありました。
山手線のホームから、電気機関車に牽かれた長い貨物列車がゆっくりと通過していく光景は、日常的なものでした。 しかし、1973年(昭和48年)に武蔵野線が開業すると、都心をバイパスする貨物輸送ルートが確保されたため、山手貨物線の役割は次第に減少していきます。 そして、その線路は新たな役目を与えられることになります。1986年からは埼京線が、2001年からは湘南新宿ラインがこの線路を走るようになり、今では首都圏の重要な旅客輸送ルートとして活用されています。 現在でも早朝や深夜などにわずかながら貨物列車が走ることもありますが、かつてのにぎわいを知る人にとっては、隔世の感があるかもしれません。
まとめ:山手線の昔を知れば、今の景色がもっと面白くなる

この記事では、「山手線 昔」をテーマに、その知られざる歴史を様々な角度からご紹介しました。1885年に「品川線」として産声をあげてから、 「の」の字運転の時代を経て、1925年に環状運転を開始するまでの道のり。 茶色い旧型国電から、ウグイス色の103系、 そして未来的な205系へと続く、時代を彩った車両の変遷。
さらには、木造だった駅舎や、駅員さんが切符を切っていた改札の風景など、今では見ることのできない懐かしい光景がありました。普段私たちが利用している山手線は、1世紀以上の長い時間をかけて、東京の発展と共に進化を遂げてきたのです。昔の歴史を知ることで、車窓から見える何気ない風景も、また違った味わい深いものに見えてくるのではないでしょうか。



コメント