通勤五方面作戦をわかりやすく解説!東京の満員電車を緩和した巨大プロジェクトの全貌

人気路線の歴史と魅力

「通勤五方面作戦」という言葉を聞いたことがありますか?

これは、かつて「殺人ラッシュ」とまで呼ばれた東京の満員電車を劇的に緩和させた、日本の鉄道史に残る壮大なプロジェクトです。

高度経済成長期、急増する通勤・通学客でパンク寸前だった首都圏の鉄道網を救うために、国鉄(現在のJR)が総力を挙げて取り組みました。

この記事では、通勤五方面作戦がどのような計画で、どの路線で、どんな工事が行われたのか、そして私たちの現在の鉄道利用にどう繋がっているのかを、専門用語も噛み砕きながら、やさしく解説していきます。

通勤五方面作戦とは?地獄のラッシュを救った国家的大プロジェクト

「通勤五方面作戦」は、1965年(昭和40年)から始まった、当時の日本国有鉄道(国鉄)による首都圏の大規模な輸送改善策です。 高度経済成長に伴う急激な人口の東京集中により、通勤ラッシュは限界を超え、「通勤地獄」とまで呼ばれるほどの社会問題となっていました。この問題を抜本的に解決するため、東京駅から放射状に延びる5つの方面の主要路線を対象に、線路を増やす「複々線化」などを中心とした大規模な設備投資が行われたのです。

計画が始動した背景 – 限界だった「通勤地獄」

計画が始まる前の1960年代、日本の首都圏は高度経済成長の真っ只中にあり、地方から東京へ多くの人々が移り住みました。 これにより、通勤・通学者の数は爆発的に増加し、鉄道の輸送能力は完全に追いつかない状態に陥っていました。当時のラッシュ時の混雑率はすさまじく、例えば1960年度には総武本線で312%、東北本線(現在の宇都宮線・高崎線)で307%に達するなど、乗車率300%超えが常態化していました。

これは「窓ガラスが割れる」「息ができない」と言われるほどのレベルで、まさに「殺人ラッシュ」「通勤地獄」と呼ばれる深刻な状況だったのです。 このような状況は、乗客の快適性を損なうだけでなく、三河島事故や鶴見事故といった大惨事の一因ともなり、安全面からも抜本的な対策が急務とされていました。

【混雑率とは?】
鉄道の混雑具合を示す指標で、定員(座席+つり革+ドア付近のスペースを考慮したもの)に対して、実際に乗っている乗客の割合をパーセントで表したものです。国土交通省の目安では、100%で「定員乗車」、150%で「新聞が楽に読める」、200%で「体が触れ合い、相当な圧迫感がある」、250%で「電車が揺れるたびに体が傾き、身動きがとれない」とされています。300%超という数字が、いかに異常な状態であったかがわかります。

作戦の目的 – 輸送力の抜本的な増強

通勤五方面作戦の最大の目的は、線路そのものを増やすことで、輸送能力を根本的に向上させることでした。その中心的な手法が「複々線化(ふくふくせんか)」です。

これまで上下線それぞれ1本ずつの線路(複線)だった区間に、もう1本ずつ線路を追加して合計4本の線路にすることを複々線化と呼びます。 これにより、例えば内側の2線を各駅停車(緩行線)、外側の2線を快速や特急(急行線)といった形で使い分ける「緩急分離運転」が可能になります。

緩急分離を行うと、速い列車が前の各駅停車に追いついてしまい、駅でもない場所で信号待ちをするといった遅延がなくなります。その結果、列車はスムーズに運行でき、運転本数を大幅に増やすことができるのです。 さらに、作戦では地下鉄との相互直通運転も積極的に取り入れられ、都心へのアクセスルートを複数確保することで、特定の路線への乗客集中を避ける狙いもありました。

国鉄の第5代総裁であった石田礼助氏は、当初通勤問題は国鉄単体の仕事ではないと消極的でしたが、自らラッシュ時の駅を視察し、その惨状を目の当たりにして「ふりかかる火の粉は振り払わなければならない」と決意し、この大プロジェクトの実施に踏み切ったと言われています。

「五方面」が指す5つの路線とは?

作戦の対象となった「五方面」とは、東京の都心から放射状に延びる以下の5つの主要幹線を指します。 これらの路線は、首都圏の通勤輸送の大動脈であり、混雑が特に激しかったため、優先的に対策が講じられました。

方面 対象となる主な路線 主な改良区間(計画)
東海道線方面 東海道本線・横須賀線 東京~小田原
中央線方面 中央本線 御茶ノ水~立川
東北線方面 東北本線(宇都宮線)・高崎線 赤羽~大宮
常磐線方面 常磐線 綾瀬~取手
総武線方面 総武本線 東京~千葉

これらの路線で複々線化や新線の建設、地下鉄との直通運転といった大掛かりな改良工事が、約20年という長い年月をかけて進められていきました。

各方面の具体的な取り組みと効果

通勤五方面作戦では、各路線の特性や状況に合わせて、様々な手法で輸送力増強が図られました。ここでは、それぞれの方面でどのような工事が行われ、どのような効果があったのかを具体的に見ていきましょう。

【東海道線方面】貨物線活用と横須賀線の分離

東海道線方面では、長距離列車、普通列車(湘南電車)、そして横須賀線の電車が同じ線路を共有しており、ダイヤが非常に窮屈な状態でした。 そこで、従来は貨物列車が主に走っていた品鶴線(品川~鶴見)を旅客線として活用し、横須賀線の電車をそちらに移すという大きな変更が行われました。 これにより、東海道線の線路は長距離列車と普通列車専用となり、運行に余裕が生まれました。

一方の横須賀線は、品川から西大井を経由して武蔵小杉、新川崎を通り横浜へ至るルートに変更されました。さらに、東京駅の地下に新たなホームを建設し、そこから品川まで地下新線を建設することで、横須賀線は総武線快速との相互直通運転を開始しました。

この「東海道線と横須賀線の分離(通称:SM分離)」によって、両路線の遅延は大幅に減少し、増発も可能になりました。また、これまで東海道線に乗り入れていなかった武蔵小杉エリアから都心へのアクセスが格段に向上するという副次的な効果も生み出しました。

【中央線方面】難工事を乗り越えた複々線化

中央線は、五方面作戦が始まる前から御茶ノ水~中野間ですでに複々線化が完成していましたが、人口増加が著しかった多摩地区からの利用客をさばくには不十分でした。 そこで、作戦では中野から三鷹、さらに立川までの複々線化延伸が計画されました。

特に、中野~荻窪間は1966年に、荻窪~三鷹間は1969年に複々線化が完成しました。 これにより、中央線快速電車と、各駅停車である中央・総武緩行線の運転が完全に分離され、安定した高速運転が実現しました。また、1966年からは中野駅で営団地下鉄(現:東京メトロ)東西線との相互直通運転が開始され、都心へのルートが複線化されたことも大きな効果でした。

しかし、用地買収の困難さなどから、残念ながら計画されていた三鷹~立川間の複々線化は現在に至るまで実現していません。 この区間は、今なお中央線のボトルネックの一つとして残されています。

【東北線・高崎線方面】長距離と通勤の分離

北関東からの玄関口である東北本線(宇都宮線)と高崎線では、特急や急行といった長距離列車と、京浜東北線などの通勤電車が同じ線路群を走行しており、互いに運行の妨げとなっていました。そこで作戦では、赤羽~大宮間で大規模な線路増設工事が行われました。 具体的には、既存の旅客線と貨物線の複々線に、さらに複線を追加して「3複線(合計6線)」としました。

これにより、①長距離列車が走る線路(東北・高崎線)、②各駅停車が走る線路(京浜東北線)、③貨物列車が走る線路、というように用途ごとの完全な分離が実現したのです。 この改良によって、京浜東北線は増発が可能になり、東北・高崎線も列車のスピードアップや15両編成といった長編成化が実現し、輸送力が大幅に向上しました。 この基盤があったからこそ、後の湘南新宿ラインや上野東京ラインといった、さらなる利便性向上に繋がっているのです。

【常磐線方面】地下鉄千代田線との画期的な相互直通

常磐線方面での改良の最大の特徴は、複々線化と同時に、営団地下鉄千代田線との相互直通運転を前提として計画が進められた点です。綾瀬~取手間で複々線化工事が行われ、快速線を走る中・長距離列車と、緩行線を走る各駅停車が分離されました。 そして、新設された緩行線は北千住駅から地下鉄千代田線へと直通する形になったのです。

これにより、従来はすべての上野駅発着だった常磐線の利用客のうち、各駅停車の利用者は大手町や霞が関といった都心へ乗り換えなしでアクセスできるようになり、利便性が飛躍的に向上しました。同時に、上野駅に集中していた乗客が分散され、駅の混雑緩和にも大きく貢献しました。この国鉄と地下鉄が一体となって大規模な直通運転を計画・実行したことは、日本の鉄道史において非常に画期的な出来事であり、他の路線のモデルケースともなりました。

【総武線方面】東京駅への地下乗り入れと房総方面への速達化

総武線は、五方面の中でも特に混雑が激しい路線でした。作戦では、錦糸町~千葉間の複々線化と、都心アクセスを抜本的に変えるプロジェクトが実行されました。それが、東京駅の地下深くに新しいホームを建設し、錦糸町からそこまで地下新線を建設するという壮大な計画です。 1972年にこの地下区間が開業し、総武線快速が東京駅に直接乗り入れることが可能になりました。

これにより、千葉方面から都心への所要時間は大幅に短縮されました。さらに、この東京駅地下ホームは東海道線方面から来た横須賀線と繋がる構造になっており、1980年からは総武線快速と横須賀線の相互直通運転が開始されました。 千葉方面から乗り換えなしで品川や横浜方面へ、逆に三浦半島方面から千葉方面へ直通できるようになった影響は非常に大きく、首都圏の人の流れを大きく変えることになりました。

通勤五方面作戦がもたらした功績と影響

数十年にわたる壮大なプロジェクト「通勤五方面作戦」は、首都圏の鉄道輸送に革命的な変化をもたらしました。その功績は単に電車が増えて便利になったというだけでなく、私たちの生活や都市の構造にまで大きな影響を与えています。

混雑率の劇的な低下

最大の功績は、何と言ってもラッシュ時の混雑率が劇的に低下したことです。300%を超えるのが当たり前だった「通勤地獄」は、この作戦によって大きく改善されました。 例えば、複々線化と地下鉄千代田線への直通運転が開始された常磐線では、1965年に284%だった亀有~綾瀬間の混雑率が、1975年には206%にまで低下しました。

もちろん、現在の基準で見ればまだ高い数値ではありますが、身動きすら取れない危険な状態からは大きく改善されたのです。 また、快速と各駅停車の分離により、列車の定時性も向上し、輸送全体の安定化に繋がりました。この作戦がなければ、その後の首都圏の発展はあり得なかったと言っても過言ではありません。

現在の首都圏鉄道網の礎を築く

私たちが現在、当たり前のように利用しているJRの運行形態の多くは、この通勤五方面作戦によって確立されたものです。快速電車と各駅停車の線路が分かれていること、地下鉄にJRの電車が乗り入れていること、総武線と横須賀線が東京駅で繋がっていることなど、すべてこの作戦の成果です。

この時に整備された複々線のインフラは、後の「湘南新宿ライン」や「上野東京ライン」といった新たな直通運転サービスの基盤ともなっています。 つまり、通勤五方面作戦は、単なる混雑緩和対策に留まらず、今日の複雑で利便性の高い首都圏の鉄道ネットワークのまさに礎を築いたプロジェクトだったのです。

都市構造への影響と沿線開発

鉄道の輸送力が飛躍的に向上したことは、東京の都市構造にも大きな影響を与えました。都心へのアクセスが改善されたことで、人々はより遠くの郊外に住むことが可能になりました。これにより、沿線の宅地開発が急速に進み、巨大なベッドタウンが形成されていきました。 作戦によって整備された鉄道網が、東京都市圏を現在の40~50km圏にまで拡大させる原動力となったのです。

「平日は郊外の自宅から都心へ通勤し、休日は地元で過ごす」という現代の多くの人々のライフスタイルは、この通勤五方面作戦による鉄道インフラの整備があったからこそ定着したと言えるでしょう。

計画遂行における課題と困難

輝かしい成果を上げた通勤五方面作戦ですが、その道のりは決して平坦なものではありませんでした。国家的な大プロジェクトであるがゆえに、数多くの課題や困難に直面したのです。

用地買収の難航と住民との交渉

最大の課題の一つが、線路を増やすための用地買収でした。特に、すでに市街地化が進んでいるエリアでの工事は困難を極めました。線路沿いの住民にとっては、立ち退きを迫られたり、工事による騒音や振動に悩まされたりするため、反対運動も各地で発生しました。 例えば、東海道線方面の横浜貨物別線の建設では、厳しい反対闘争があったと記録されています。

こうした住民との交渉は長期化し、計画全体の遅延の大きな原因となりました。中央線の三鷹~立川間の複々線化が未だに実現していないのも、この用地問題の難しさを象徴している事例と言えます。

膨大な建設費用と国鉄財政への影響

複々線化や地下新線の建設には、当然ながら莫大な費用がかかります。通勤五方面作戦の総投資額は巨額にのぼり、その多くは借入金で賄われました。 当時の国鉄総裁だった石田礼助氏は、通勤輸送の改善は国策でもあるとして政府に出資を要請しましたが、十分な支援は得られませんでした。 通勤定期の運賃は大幅に割り引かれているため、この投資を運賃収入だけで回収することは非常に困難でした。 結果として、この大規模な投資は、ただでさえ悪化しつつあった国鉄の財政をさらに圧迫し、後の国鉄分割民営化の遠因の一つになったとも言われています。 公共性と採算性の両立という、鉄道事業が抱える根源的な難しさが浮き彫りになったのです。

長期にわたる建設工事と利用者への影響

通勤五方面作戦は、1965年の計画開始から、主要な工事が完了する1980年代初頭まで、非常に長い期間を要しました。 この間、利用者は日々の通勤で工事に伴う不便を強いられることになりました。線路の切り替え工事による運休や遅延、駅舎の改築に伴う仮設通路の利用など、ラッシュ緩和という未来の利益のために、長期にわたる忍耐が求められたのです。

また、工事の遅れも常態化していました。当初は1971年度末までの完了を目指していましたが、人口集中が想定を上回ったため計画が前倒しされたものの、実際にはほとんどの区間で予定を大幅に超えて完成しました。 このように、日々の運行を続けながら巨大なインフラを更新していくことの難しさも、このプロジェクトが直面した大きな課題でした。

まとめ:通勤五方面作戦は現代に続く鉄道の礎

「通勤五方面作戦」は、高度経済成長期の日本が直面した「通勤地獄」という深刻な社会問題を解決するために、国鉄が総力を挙げて取り組んだ国家的なプロジェクトでした。 その中心は、東海道線、中央線、東北線、常磐線、総武線という5方面の主要路線における複々線化であり、これによって輸送力は飛躍的に増強され、殺人的なラッシュは大幅に緩和されました。

この作戦の功績は、単に満員電車を解消しただけにとどまりません。快速と各駅停車の分離運転、地下鉄との大規模な相互直通運転、そして総武・横須賀線の直結など、現在の首都圏の鉄道ネットワークの根幹を成す多くの仕組みが、この時に生み出されたのです。 もしこの作戦がなければ、現在の東京の発展も、郊外に広がるベッドタウンでの生活も、全く違ったものになっていたことでしょう。

もちろん、用地買収の難航や、国鉄財政への大きな負担といった負の側面もありました。 しかし、それらの困難を乗り越えて実現されたインフラは、半世紀以上が経過した今なお、私たちの毎日の生活と経済活動を力強く支え続けています。通勤五方面作戦は、まさに現代日本の礎を築いた、歴史に残る大事業だったのです。

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