京成3200系の軌跡!高度経済成長期を支えた「赤電」の歴史を解説

鉄道の仕組みと用語解説

京成電鉄のかつての主力車両、3200形をご存知でしょうか。高度経済成長期の日本の通勤・通学輸送を力強く支え、「赤電(あかでん)」の愛称で多くの人々に親しまれた名車です。1964年の登場から2007年の引退まで、実に43年もの長きにわたり京成線や乗り入れ先の都営浅草線、京急線で活躍しました。

京成初の両開きドアの採用や、特急「開運号」としての華やかなデビュー、そして時代に合わせた数々の改造など、その歴史は話題に事欠きません。この記事では、そんな京成3200形の誕生から引退までの軌跡を、その特徴や様々なバリエーションとともに、やさしく丁寧に解説していきます。懐かしい「赤電」の魅力に、もう一度触れてみませんか。

京成3200系とは?高度経済成長期を駆け抜けた名車

京成3200形は、日本の高度経済成長がピークを迎えつつあった1964年(昭和39年)に登場した通勤形電車です。 前年に登場した3150形をベースとしながらも、様々な新機軸が盛り込まれ、その後の京成電車の基礎を築いた重要な車両と言えるでしょう。当時の社会情勢や鉄道技術の進化を背景に誕生した3200形は、多くの利用者にとって頼れる足として、また鉄道ファンにとっては魅力あふれる存在として、長年にわたり愛され続けました。

高度経済成長を支えた通勤電車

1964年といえば、東京オリンピックが開催され、日本中が活気に満ち溢れていた時代です。首都圏への人口集中は加速し、鉄道の輸送力増強が急務となっていました。京成電鉄も例外ではなく、増え続ける乗客に対応するため、より効率的に多くの人を運べる新型車両を必要としていました。

そうした時代背景の中でデビューしたのが3200形です。 この車両の最大の特徴は、京成の通勤形電車として初めて車体側面の乗降ドアに両開きドアを採用した点です。 それまでの片開きドアに比べて開口部が広くなり、朝夕のラッシュ時における乗客の乗り降りをスムーズにしました。これは、まさに時代の要請に応えた設計であり、首都圏の鉄道が抱える混雑緩和への一つの答えでした。3200形は、その後登場する3300形や3500形にも引き継がれる設計思想の礎となり、京成電鉄の輸送力向上に大きく貢献したのです。

「赤電」と呼ばれた理由とその特徴

3200形は、その鮮やかな車体塗装から「赤電(あかでん)」という愛称で親しまれました。 具体的には、車体下半分がファイアオレンジ、上半分がモーンアイボリー、そしてその境目にミスティラベンダーの帯を配したカラーリングです。 この塗装は1959年に登場した初代3050形から採用されたもので、当時の京成電鉄の標準色でした。

「赤電」登場の背景
「赤電」が登場する以前、京成の車両は「青電」と呼ばれる青系の塗装が主流でした。しかし、京成電鉄創立50周年と、都営地下鉄への乗り入れを控え、新たな時代を象徴するイメージアップ戦略として、この斬新なカラーリングが採用されたと言われています。

外観は、前年に登場した3150形と似ていますが、両開きドアの採用のほかにも、正面が丸みを帯びた形状から、少し角ばった「折妻(おれづま)」形状に変更されたり、運転台の床が高くなったことに伴い窓のサイズが変更されたりといった細かな違いが見られます。 これらの特徴が、3200形ならではの精悍な表情を作り出していました。

都営浅草線への乗り入れを実現した高性能車両

3200形が製造されたもう一つの大きな目的は、都営地下鉄1号線(現在の浅草線)への相互直通運転でした。京成電鉄は1960年から都営浅草線との相互直通運転を開始しており、3200形もそのための規格を満たした車両として設計されました。

これにより、京成線内だけでなく、都心部の浅草や銀座、新橋へ、さらには浅草線を経由して京浜急行電鉄(京急)の路線へと乗り入れることが可能になりました。 3200形は、千葉と都心、そして神奈川方面を結ぶ大動脈の一翼を担う、まさに広域ネットワークを支える高性能車両だったのです。

1968年までは京急線へも定期的に乗り入れていましたが、その後は臨時列車などを除き、1998年以降は基本的に京急線内での営業運転は行われなくなりました。

多彩なバリエーション!3200系の形式と編成

1964年から1967年にかけて合計88両が製造された3200形は、製造時期や用途によっていくつかのバリエーションが存在しました。 すべての車両が同じ仕様だったわけではなく、モーターの搭載方式の違いや、後年の改造によってさらに多様な姿を見せてくれました。ここでは、そんな3200形の奥深い形式と編成の世界を覗いてみましょう。

初期車と後期車の違い「8M車」と「6M車」

3200形は、搭載するモーターの数によって大きく2つのグループに分けられます。専門的な言葉になりますが、これを理解すると3200形の面白さがより深まります。

8M車(3201~3220)
1964年に製造された初期の20両は、編成を組む4両すべての車輪(8つの台車)にモーターが取り付けられていました。 これを「全電動車方式」または「8M車」と呼びます。すべての車輪で加速するため、非常にパワフルなのが特徴です。
6M車(3221以降)
1965年以降に製造された車両は、コストダウンと技術の進歩を背景に、編成の両端にある先頭車両の運転台側の台車にはモーターを搭載しない方式が採用されました。 これにより、4両編成のうちモーターが付いているのは6つの台車となり、「6M車」と呼ばれました。モーターの数を減らした分、一つあたりのモーターの出力を上げて性能を確保していました。 この6M方式は、その後の3300形や3500形にも引き継がれることになります。

冷房化改造と中間車の先頭車化

登場時はもちろん冷房装置を搭載していませんでしたが、サービス向上のため、1985年から1989年にかけて全車両に冷房化改造が行われました。 この大規模な更新工事と同時に、車両の外観も大きく変化します。それまで屋根上にあった丸い扇風機(ベンチレーター)が撤去され、分散式の冷房装置が複数搭載されました。また、ヘッドライトが窓下から窓上部に移設され、急行列車として走る際に点灯する「急行灯」が新設されるなど、より近代的な顔つきへと生まれ変わりました。

さらにユニークな改造として、中間車を先頭車に改造した車両も存在しました。 運用の変化に対応するため、もともと運転台のなかった中間の車両に運転台を取り付けるという大掛かりな改造です。これにより、編成の組み換えがより柔軟に行えるようになりました。

VVVFインバータ制御の試験車「3291~3294編成」

3200形の中でも特に異彩を放っていたのが、VVVFインバータ制御の試験車として改造された3294編成(3291~3294の4両)です。 この編成はもともと、後述する特急「開運号」用として製造された車両で、他の3200形とは異なりドアが片開きでした。

1988年の更新工事の際に、京成で初となるVVVFインバータ制御装置を搭載する試験車に抜擢されたのです。

VVVFインバータ制御とは?
従来の抵抗制御に代わる、新しいモーターの制御方式です。電力消費を抑えられ(省エネ)、スムーズな加減速が可能になるなどのメリットがあります。現在走っているほとんどの電車がこの方式を採用しています。

この試験で得られたデータは、後の3700形などの新型車両開発に活かされました。 他の3200形が引退していく中でも活躍を続けましたが、特殊な車両であったため2004年に一足早く廃車となりました。 片開きドアに角形のヘッドライト、そして独特のモーター音を持つこの編成は、多くの鉄道ファンにとって忘れられない存在となっています。

時代を彩ったカラーバリエーション

43年という長い活躍期間の中で、3200形はその時代の要請や会社のイメージ戦略に合わせて、何度もその姿を変えてきました。特に車体のカラーリングは、見る人に与える印象を大きく左右します。登場時の鮮やかな「赤電」塗装から、晩年の落ち着いた新塗装、そしてファンを喜ばせたリバイバルカラーまで、3200形がまとった様々な「顔」をご紹介します。

登場時の「赤電」塗装

3200形といえば、やはり多くの人が思い浮かべるのがこの「赤電」塗装でしょう。 1959年の3050形から採用された、ファイアオレンジとモーンアイボリーのツートンカラーは、高度経済成長期の活気ある街並みによく映えました。 この塗装は3300形まで引き継がれ、長きにわたり京成電車の象徴として親しまれました。

当初はステンレスの縁取りが付いたミスティラベンダーの帯が彩りを添えていましたが、1980年代に入ると塗装工程の簡略化のため、ファイアオレンジ一色にアイボリーの帯を巻いた「新赤電色」へと変更されました。 同じ赤電でも、実は微妙な変化があったのです。このカラーリングは、多くの人々の記憶の中に「京成電車」として深く刻み込まれています。

新塗装への変更と試験塗装の迷走劇

1991年、京成電鉄は3700形などの新型車両登場に合わせて、在来車両のイメージアップを図るため塗装変更を検討し始めました。 そこで白羽の矢が立ったのが、3200形の初期車(8M車)たちでした。3200形は、新しいカラーリングを試すためのキャンバスとなったのです。

最初に登場したのは、現在の京成カラーに近いライトグレーをベースにした試験塗装でした。 しかし、その後は迷走ともいえるユニークな塗装が次々と登場します。ホワイトベース、ライトブルーベース、そして沿線住民を驚かせたライトグリーン(通称カエル色)ベースなど、様々なカラーリングが試されました。

一時期、3200形の初期車5編成のうち4編成がそれぞれ異なる試験塗装をまとい、残りの1編成が従来のファイアオレンジだったため、5編成すべてが違う色で走っていたという珍しい光景も見られました。

最終的に、1993年にライトグレーをベースに赤と青の帯を配した新塗装(現在の鋼製車の標準色)が正式に採用され、3200形も順次この塗装へと変更されていきました。

ファンを沸かせたリバイバルカラー

長い活躍の最終盤、3200形は鉄道ファンを大いに喜ばせるサプライズを用意してくれました。2007年1月、引退が近い3298編成が、かつての特急「開運号」を彷彿とさせる赤電塗装にリバイバルされたのです。

この編成はもともと、特急「開運号」用としてセミクロスシートを備えてデビューした車両でした。 更新工事によって通勤用のロングシートに改造されていましたが、最後の花道として、往年の姿を模したカラーリングが施されました。ヘッドライトの位置など、厳密には登場時と異なる部分もありましたが、懐かしい赤電カラーの復活は大きな話題となり、多くのファンがカメラを片手に最後の雄姿を追いかけました。 このリバイバル塗装は、3200形が多くの人々に愛された車両であったことの証と言えるでしょう。

運用と活躍の軌跡

3200形は、その汎用性の高さから、京成電鉄の様々な路線で、そして多彩な種別で活躍しました。特急から普通まで、あらゆる役割をこなし、まさに「縁の下の力持ち」として京成の鉄道網を支え続けたのです。また、他社へリースされるなど、京成線以外の場所で活躍した少し変わった経歴も持っています。その43年間にわたる活躍の軌跡をたどってみましょう。

特急「開運号」から通勤輸送まで

3200形の中でも、3291~3298の8両は特別な使命を持って生まれました。それは、成田山新勝寺への参拝客を運ぶ特急「開運号」としての役割です。 このため、これらの車両は当初、座席指定のセミクロスシートを備え、一部車両にはトイレも設置されていました。 しかし、初代スカイライナーAE形の登場により、1974年に特急運用から引退。その後はトイレの撤去や座席のロングシート化改造を受け、他の3200形と同じように通勤輸送で活躍することになりました。

一方、大多数の3200形は、デビュー当初から通勤輸送の主力として、普通、急行、特急といったあらゆる種別の列車に使用されました。 4両編成、6両編成、そしてラッシュ時には2つの編成をつないだ8両編成で、京成本線はもちろん、押上線、金町線、千葉線など、京成のほぼ全線でその姿を見ることができました。

都営浅草線・京急線への直通運転

3200形の重要な役割の一つが、都営浅草線を経由した相互直通運転でした。 これにより、利用者は乗り換えなしで都心部へアクセスできるようになり、利便性が大幅に向上しました。京成線内から都営浅草線の西馬込駅まで、あるいは京急線の羽田空港駅(当時)や三崎口駅方面まで、広範囲にわたって活躍しました。

特に8両編成を組んだ際には、都営浅草線直通の優等列車(急行や特急)に充当されることも多く、京成、都営、京急の3社にまたがる大動脈を日々駆け抜けていました。 ただし、前述の通り、京急線への乗り入れは1998年のダイヤ改正以降、リース車両を除いて基本的には行われなくなりました。

晩年の活躍と千葉急行電鉄へのリース

2000年代に入ると、3000形(2代)などの新型車両の登場により、3200形は徐々に第一線から退くようになります。晩年は、普通列車やラッシュ時の運用が中心となりました。そんな中、少し変わった活躍の場として、千葉急行電鉄(現在の京成千原線)へのリースがありました。

また、2003年12月からは8両が北総開発鉄道(現在の北総鉄道)へリースされ、形式も「7250形」として活躍しました。 これは、北総鉄道の車両が検査などで不足した際に、それを補うための貸し出しでした。塗装は京成時代のままでしたが、社名プレートなどが北総のものに交換され、京成線だけでなく北総線内でもその姿を見ることができました。このリースは2006年3月に終了し、車両は京成に返却された後に廃車となっています。

京成3200系の引退とその後

40年以上にわたり京成電鉄の顔として走り続けた3200形も、老朽化には抗えず、ついに引退の時を迎えます。多くの人々の日常を支え、時には特別な列車として注目を集めた名車は、どのようにしてその歴史に幕を下ろしたのでしょうか。そして、そのDNAは現代にどのように受け継がれているのでしょうか。

惜しまれつつ引退した最終章

3200形の廃車は、2003年3月から本格的に始まりました。 新型車両である3000形(2代)の増備が進むにつれて、3200形は次々とその役目を終えていきました。VVVFインバータ試験車であった3294編成が2004年1月に一足早く引退し、その他の車両も順次廃車が進められました。

そして2007年11月、最後まで残っていた編成の引退をもって、京成3200形はその43年間の歴史に完全に幕を下ろしました。 引退間際には、前述のリバイバルカラー編成の運行や、さよなら運転などが実施され、多くの鉄道ファンや沿線住民が最後の別れを惜しみました。高度経済成長期から21世紀まで、激動の時代を駆け抜けた名優の、静かな退場でした。

解体と部品の再利用

残念ながら、引退した京成3200形の車両で、丸ごと一両が保存されているという公式な情報は見当たりません。役目を終えた車両の多くは解体され、鉄などの資源としてリサイクルされました。日本の鉄道車両は、安全基準や技術の進化に伴い、比較的短いサイクルで置き換えられることが多く、すべての形式が保存されるわけではないのが現状です。

しかし、解体された車両の部品の一部が、他の車両の補修用として再利用されたり、鉄道部品の即売会などで販売されたりすることはあります。3200形に取り付けられていた方向幕やナンバープレート、座席などは、今もどこかで鉄道ファンによって大切に保管されているかもしれません。

今も語り継がれる3200系のDNA

車両そのものは姿を消してしまいましたが、京成3200形が残した功績は決して小さくありません。京成で初めて本格採用された両開きドアは、今や通勤電車のスタンダードです。また、6M方式というモーター配置の考え方は3500形まで引き継がれました。 そして、VVVFインバータ制御の試験車として得られた貴重なデータは、3700形以降の省エネ車両開発の礎となったのです。

2代目3200形の登場
初代3200形の引退から18年後の2025年、奇しくも同じ「3200形」を名乗る新型車両がデビューしました。 初代が活躍した時代とは社会情勢も大きく変わりましたが、輸送需要に応じて柔軟に編成を組める設計など、どこか初代を彷彿とさせる部分もあります。 時代を超えて、京成の歴史は受け継がれていくのです。

京成3200形は、単なる過去の車両ではありません。その設計思想や技術的な挑戦は、現在の京成電車の中に脈々と生き続けています。

まとめ:私たちの記憶に残る京成3200系という名車

1964年のデビューから2007年の引退まで、京成3200形は43年という長きにわたり、私たちの足として活躍し続けました。高度経済成長期のラッシュを緩和した両開きドア、都心へ直通する利便性、そして時代と共に変化した多彩なカラーリング。その一つひとつが、京成電鉄の歴史、そして日本の鉄道史の1ページを飾っています。

特急「開運号」としての華やかな一面から、最新技術の試験車という裏方まで、様々な顔を持っていたことも3200形の大きな魅力でした。ファイアオレンジの「赤電」塗装は、多くの人々の心に懐かしい風景として刻まれていることでしょう。車両はなくなっても、京成3200形が残した功績と記憶は、これからも色褪せることなく語り継がれていくはずです。

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