電車の発車時に聞こえる「ヒュイーン」「ウィーン」といった独特なモーター音。鉄道ファンならずとも、一度は耳にしたことがあるのではないでしょうか。
その中でも、ひときわ個性的でファンの心をつかんで離さないのが、通称「墜落インバータ」と呼ばれる音です。加速していく途中で、まるで音が墜落するかのように急激に音階が変化するのが特徴です。
なぜあのような不思議な音がするのでしょうか?この記事では、墜落インバータの正体とその魅力的な仕組み、そして今では貴重となったその音を聞ける車両について、専門的な内容もかみ砕きながら、やさしくわかりやすく解説していきます。
墜落インバータとは?その特徴的な音の正体
鉄道ファンや「音鉄」と呼ばれる愛好家の間で使われる「墜落インバータ」という言葉。まずは、この言葉が何を指し、あの独特な音がどこからやってくるのか、基本的な部分から見ていきましょう。
「墜落インバータ」という言葉の由来
「墜落インバータ」は、正式な技術用語ではありません。鉄道愛好家、特に電車の走行音を楽しむ「音鉄」と呼ばれる人々によって名付けられた愛称です。電車が加速していく過程で、上昇していたモーター音の音階が、ある点を境に急激に低くなる、あるいは全く異なる音質に変化する現象を、飛行機が「墜落」する様子になぞらえて表現したものです。
このキャッチーで少し物騒なネーミングが、その音の持つインパクトを的確に捉えていることから、ファンの間に広く浸透しました。特にJR東日本のE231系近郊型電車で聞ける音が有名で、「墜落インバータ」の代名詞的存在となっています。
音の正体はVVVFインバータ装置の磁励音
あの独特な音の正体は、電車に搭載されている「VVVF(スリーブイエフ)インバータ」という装置から発生する磁励音(じれいおん)です。 VVVFインバータは、架線から取り入れた直流の電気を、モーターを動かすための交流の電気に変換する役割を担っています。このとき、電圧と周波数を自在に変化させる(Variable Voltage Variable Frequency)ことで、モーターの回転数を滑らかに制御し、スムーズな加速や減速を実現しています。
磁励音とは、このVVVFインバータ内部の部品や、それに繋がれたモーターが、電気のON/OFF(スイッチング)によって発生する磁力の変化で微細に振動し、それが音として聞こえる現象のことです。 つまり、電車のモーターそのものが歌っているというよりは、モーターを制御する装置とその影響でモーターが発する「うなり音」が、私たちの耳に届いているのです。
なぜ「墜落」と表現されるのか?音階が変化する理由
では、なぜ加速中に音階が「墜落」するように変化するのでしょうか。これは、VVVFインバータがモーターを制御する際の「制御モード」が切り替わることによって起こります。電車は、発車時の低速域と、速度が乗ってきた中~高速域とで、モーターを効率よく回すための制御方法を変えています。
低速域では「非同期モード」と呼ばれる、非常に細かいスイッチングで滑らかな回転を生み出すモードで動作します。 このとき、速度が上がるにつれてスイッチングの周波数が変化し、音階が「ヒュイーン」と上がっていきます。そして、ある程度の速度に達すると、より効率的な「同期モード」へと切り替わります。 このモードの切り替え点でスイッチングのパターンが大きく変わるため、人間の耳にはそれまで上がってきた音階が一度リセットされ、急に下がったかのように聞こえるのです。これが「墜落」の瞬間の正体です。
墜落インバータの音はどうやって生まれる?仕組みを深掘り

「墜落」の理由が制御モードの切り替えにあることがわかりました。ここではさらに一歩踏み込んで、その音を生み出す心臓部であるVVVFインバータの仕組みと、音色の違いを生む要素について詳しく見ていきましょう。
モーターを制御するVVVFインバータの役割
現代の電車の多くは「交流モーター(誘導電動機)」を使っています。 交流モーターは、構造がシンプルで丈夫、そしてメンテナンスが容易という大きなメリットがあります。 しかし、このモーターを意のままに操るには、供給する交流電気の「電圧」と「周波数」を精密にコントロールする必要があります。 この重要な役割を担うのがVVVFインバータです。
発車時は低い電圧・低い周波数の交流を、速度が上がるにつれて高い電圧・高い周波数の交流をモーターに送り込みます。 この精密な制御により、電車はエネルギーの無駄なく、乗客に不快感を与えないスムーズな加速を実現しているのです。ブレーキをかける際には、モーターを発電機として利用し、発生した電気を架線に戻す「回生ブレーキ」の機能も担っており、省エネにも大きく貢献しています。
音の源「GTOサイリスタ」と「IGBT」
VVVFインバータの音色を決定づける重要な部品が、内部で電気のON/OFFを行う「スイッチング素子」と呼ばれる半導体です。黎明期のVVVFインバータで主流だったのが「GTO(Gate Turn-Off)サイリスタ」という素子でした。 GTOは大きな電力を制御できるのが長所でしたが、スイッチングの速度が比較的遅いという特徴がありました。 そのため、人間が聞き取れる周波数帯(可聴域)でスイッチングを行う必要があり、結果として「ウィーン」という大きな磁励音が発生しやすかったのです。
一方、現在主流となっているのは「IGBT(Insulated Gate Bipolar Transistor)」という素子です。 IGBTはGTOよりもはるかに高速なスイッチングが可能で、電力損失も少ないのが特徴です。 高速スイッチングにより、磁励音の周波数を人間の耳には聞こえにくい非常に高い領域(非可聴域)に追いやることができるため、IGBTを搭載した車両はGTOの車両に比べて非常に静かになりました。 「墜落インバータ」として有名なE231系の音は、実はこのIGBT素子から発せられていますが、その制御方法(ソフトウェア)によって独特の音階変化が生み出されています。
一般的に、GTOインバータは低い周波数で動作するため、唸るような力強い磁励音が特徴です。一方、IGBTインバータは甲高い「キーン」という音が主体で、全体的に静かです。この音の違いを聞き分けるのも「音鉄」の楽しみの一つです。
パルスモード(PWM制御)と音階変化の関係
VVVFインバータは、「PWM(パルス幅変調)制御」という方法で、直流から擬似的な交流の波形を作り出しています。 これは、スイッチのON/OFFを高速で繰り返し、ONになっている時間の幅(パルス幅)を変化させることで、出力される電圧をコントロールする技術です。
電車が発車する際、インバータはまず非常に多くのパルスを組み合わせることで、滑らかなモーターの回転を生み出します(非同期モード)。速度が上がるにつれて、モーター自身が発生する電圧が高くなり、細かい制御が不要になってくるため、インバータはパルスの数を減らしていきます。例えば、交流の波一周期あたりに15個あったパルスを9個に、次は3個に…といった具合に切り替えていきます。このパルスの数を切り替える瞬間に、磁励音の周波数が階段状に変化し、独特の音階が生まれるのです。 そして、最終的に1パルス(同期モード)になった時点で、インバータのスイッチング音はほぼ聞こえなくなり、モーター本来の回転音が主体となります。 「墜落」現象は、この一連のパルスモード切り替えの中でも特に大きな変化が起こるポイントで発生するのです。
あの音はどこで聞ける?墜落インバータ搭載車両
特徴的なサウンドで人気の墜落インバータですが、技術の進歩とともにその数を減らしています。ここでは、代表的な墜落インバータ搭載車両をいくつかご紹介します。ただし、車両によっては機器の更新によって音が変わっている場合があるため、注意が必要です。
JR東日本の代表格 E231系1000番台
「墜落インバータ」と聞いて、多くの鉄道ファンが真っ先に思い浮かべるのが、JR東日本のE231系1000番台(近郊タイプ)でしょう。 主に東海道線、高崎線、宇都宮線(上野東京ライン、湘南新宿ライン)などで活躍している車両です。 日立製作所製のIGBT-VVVFインバータを搭載しており、加速時に音階が下がる独特の変調パターンを持っています。 しかし、このE231系1000番台も登場から年数が経過し、2015年頃からVVVFインバータ装置を新しいものに交換する「機器更新」が進められています。 更新後の車両は、E233系などに近い静かな音になっており、オリジナルの「墜落音」を聞くことができる編成は年々減少しています。
E231系1000番台の機器更新は進行中であり、未更新の編成は残りわずかとなっています。 この貴重なサウンドを楽しむなら、早めの乗車や録音がおすすめです。
「幽霊インバータ」と呼ばれた三菱製VVVF
「墜落インバータ」とは少しタイプが異なりますが、E231系の通勤タイプ(常磐線・総武線各駅停車など)や、かつての山手線E231系500番台に搭載されていた三菱電機製のVVVFインバータも、非常に特徴的な音で知られていました。加速時に「ヒュルルル…」と竜巻や幽霊のうめき声のようにも聞こえる独特な音階変化から、「幽霊インバータ」「おばけインバータ」などと呼ばれ、こちらもファンに人気でした。 こちらのタイプも機器更新により、現在ではごく一部の車両(相模鉄道10000系など)でしか聞くことができなくなっており、大変貴重な存在です。
私鉄で見られる個性的なインバータ音
墜落インバータのような個性的なVVVFサウンドは、JRだけでなく私鉄の車両でも聞くことができます。
例えば、かつての京急2100形などが搭載していたドイツ・シーメンス社製のGTO-VVVFインバータは、起動時に音階を奏でることから「ドレミファインバータ」として非常に有名でした。これも制御ソフトによる演出ですが、多くの人々に親しまれました。
その他にも、GTO素子を搭載した初期のVVVF車両は、各メーカーや鉄道会社ごとに様々な音色の違いがあり、その力強いサウンドに魅了されるファンも少なくありません。東武鉄道や西武鉄道、京王電鉄などの一部の古い形式の車両では、今でもGTOならではの豪快な走行音を体験できる場合がありますが、これらの車両も引退や機器更新が進んでいます。
なぜ減った?墜落インバータの今と昔
多くのファンを魅了した墜落インバータやGTOインバータの音ですが、なぜ最近の新型車両では聞かれなくなったのでしょうか。そこには、鉄道技術の着実な進化と、時代が求める性能の変化がありました。
技術革新!静かな「IGBT」素子の登場と普及
前述の通り、VVVFインバータの音を大きく左右するのが「スイッチング素子」です。1990年代に主流だったGTOサイリスタは、動作速度に限界があり、可聴域でのスイッチングが必要だったため、どうしても大きな磁励音が発生してしまいました。
そこに登場したのが、より高速で効率的なスイッチングが可能なIGBT素子です。 IGBTの登場により、インバータのスイッチング周波数を人間の耳には聞こえない高い領域へとシフトさせることが可能になりました。これにより、発車時や減速時の耳障りな磁励音を劇的に低減できるようになったのです。 初期のIGBTインバータでは、E231系のような特徴的な音も生まれましたが、技術が成熟するにつれて、より静かでスムーズな制御が追求されるようになりました。
省エネと静音性の追求がもたらした変化
鉄道会社が新型車両を導入する際、最も重視する性能の一つが「省エネルギー性」です。IGBT素子は、GTO素子に比べてスイッチング時の電力損失が少なく、より効率的にモーターを制御できます。 これは、鉄道会社の運営コスト削減に直結する大きなメリットです。
さらに、沿線環境への配慮や、乗客の快適性向上の観点から「静音性」も非常に重要な要素です。IGBTインバータの採用は、走行騒音の低減に大きく貢献しました。 近年では、IGBTよりもさらに電力損失が少ない「SiC(炭化ケイ素)」という新しい素材を使った素子も登場し、さらなる省エネと静音化が進んでいます。 このように、より効率的で、より静かな車両を目指す技術開発の流れの中で、かつての特徴的なインバータ音は、次第に過去のものとなりつつあるのです。
墜落インバータの音を楽しむ文化「音鉄」
技術の進歩によって姿を消しつつある個性的なインバータ音ですが、その音に魅了され、積極的に記録し、楽しむ文化があります。それが「音鉄」です。 彼らは、高性能なマイクを片手に駅のホームや沿線に立ち、お目当ての車両が奏でるVVVFサウンドを録音します。録音した音は、波形解析ソフトで分析したり、動画サイトで共有したりして楽しんでいます。
単なる騒音と捉えられがちな電車の走行音も、その仕組みや背景を知ることで、まるで楽器の演奏のように聞こえてくるから不思議です。 「墜落インバータ」や「ドレミファインバータ」といった愛称が生まれ、広く親しまれているのも、こうした音鉄文化が背景にあると言えるでしょう。消えゆく音を惜しみ、その価値を再発見する活動は、鉄道趣味の奥深さを示しています。
まとめ:技術の進化が生んだ芸術「墜落インバータ」の魅力

この記事では、多くの鉄道ファンを魅了する「墜落インバータ」について、その正体から仕組み、そして現状までを解説してきました。
墜落インバータの音は、VVVFインバータというモーター制御技術の進化の過程で生まれた、いわば「過渡期のサウンド」です。GTOからIGBTへと素子が進化し、制御ソフトウェアが洗練されていく中で、偶然にも生まれたその個性的な音階の変化は、多くの人の心に深く刻まれました。
省エネ化や静音化といった時代の要請により、このような特徴的な音を聞ける機会は確実に減っています。しかし、その背景にある技術の面白さや、消えゆく音を追い求める人々の情熱は、鉄道という趣味の奥深さを物語っています。次に電車に乗る機会があれば、ぜひその足元から聞こえてくるモーター音に耳を澄ませてみてください。もしかしたら、そこには技術者たちの工夫と時代の音が詰まっているかもしれません。



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