小田急1800形は、戦後の混乱期に登場し、高度経済成長期の輸送力増強を支え続けた伝説的な車両です。もともとは国鉄(現在のJR)の戦時設計車両である63形をベースにしており、その武骨な外観と圧倒的な存在感は、当時の鉄道ファンや沿線住民に強い印象を残しました。
この記事では、小田急1800形がどのような経緯で誕生し、どのように改良されていったのかを詳しく解説します。また、引退後の第2の人生についても触れていきます。昭和の小田急線を象徴するこの車両の歴史を紐解くことで、当時の街の活気や鉄道の進化を感じていただけるはずです。
小田急1800形の誕生と数奇な運命

小田急1800形は、一般的な新造車両とは異なり、非常に特殊な経緯で小田急電鉄に仲間入りしました。そのルーツは、第2次世界大戦末期から戦後直後にかけて製造された「国鉄63形電車」にあります。まずは、この車両がなぜ小田急にやってきたのか、その背景を見ていきましょう。
戦後の混乱期に登場した「国鉄63形」とは
国鉄63形電車は、戦中から戦後にかけての極端な物資不足の中で設計された車両です。とにかく「一度にたくさんの人を運ぶこと」を最優先に考えられたため、装飾は一切省かれ、ガラスも3段窓にするなど簡素な作りが特徴でした。当時は空襲による車両の焼失や、復員・買い出しによる乗客の爆発的な増加により、鉄道輸送が限界を迎えていました。
そこで政府の主導により、国鉄だけでなく大手の私鉄にもこの63形を割り当て、輸送力を確保する方針が取られました。これが後に「割当車両」と呼ばれるものです。小田急電鉄にも、この強力な輸送力を持つ大型車両が導入されることになり、1800形としての歴史がスタートしました。
当時の私鉄は小型の車両が主流だったため、全長20メートル、幅2.8メートルを超える63形の導入は、まさに異例中の異例と言える出来事でした。この巨大な車両を受け入れるために、小田急は急ピッチで準備を進めることになります。
小田急への入線と初期の姿
1946年(昭和21年)から小田急に入線し始めた1800形ですが、当初の姿はまさに「国鉄そのまま」でした。塗装も国鉄時代の茶色一色のままで、当時の小田急の標準色とは異なっていました。入線にあたっては、形式番号を1800番台としたことから、この名で親しまれるようになりました。
導入当初、1800形は主に新宿から小田原までの本線で使用されました。それまでの主力車両に比べて圧倒的な収容力を誇ったため、ラッシュ時の混雑緩和に大きな効果を発揮しました。しかし、戦時設計ゆえの故障の多さや、簡素すぎる内装は、乗客や乗務員にとっても苦労の種だったと言われています。
それでも、電車の数が足りなかった時代において、1800形の力強い走りは沿線の人々にとって復興のシンボルでもありました。茶色の武骨な車体が、まだ更地が多かった沿線を走る姿は、当時の力強い活気を象徴する風景だったのです。
大型車両導入に伴う地盤と駅の改良
20メートル級の大型車両である1800形を走らせるためには、車両だけを用意すれば良いわけではありませんでした。当時の小田急線は、まだ中型車両に合わせて設備が作られていたため、地上設備の改良が不可欠でした。具体的には、ホームの延長や拡幅、急曲線の緩和、変電所の容量アップなどが含まれます。
特にホームと車両の隙間が空きすぎてしまう箇所や、車両の端が接触してしまう恐れのあるカーブの修正は大変な作業でした。また、重量のある1800形が走ることで線路への負担も増えるため、バラスト(砂利)を補充して路盤を強化する工事も並行して行われました。
これらの大規模な投資と工事が行われたことで、小田急は現代に続く「大型車両が頻繁に行き交う高密度路線」としての基盤を築くことができました。1800形の導入は、単なる車両の補充ではなく、小田急電鉄全体の近代化への第一歩だったと言えるでしょう。
1800形が進めた車両の近代化と改造の歴史

導入当初こそ簡素な作りだった1800形ですが、その後、小田急独自の工夫によって何度も大規模な改造が行われました。その変遷を追うと、鉄道車両がどのように進化していったのかがよく分かります。武骨な「ロクサン」が、洗練された「小田急スタイル」へと変わっていく過程は、技術者たちの意地の見せ所でもありました。
2ドアから3ドアへの大改造
国鉄63形として誕生した当時は、側面には4つの扉がありましたが、小田急への導入初期には資材不足から扉の数を減らしたり、簡素な手動扉のまま運用されたりしていました。しかし、乗客の増加に伴い、スムーズな乗降を確保するために自動扉の設置と配置の適正化が必要となりました。
そこで1800形は、順次ドアの増設や位置の変更が行われました。これにより、1両あたり3つの扉を持つ構成が標準となりました。この改造によって駅での停車時間が短縮され、より正確な運行が可能になりました。当時の改造技術としては非常に大がかりなもので、車両の骨組みにまで手を入れる工事だったと言われています。
また、窓の形も当初の3段窓から、メンテナンスがしやすく見た目もスッキリしたタイプへと交換されていきました。これにより、外観上の「戦時設計車両」という印象が少しずつ薄れ、通勤電車としての完成度が高まっていったのです。
車体更新によるアルミサッシと外観の変化
1960年代に入ると、1800形に最大の転機が訪れます。それは、古い車体を完全に取り替え、新しい車体に載せ替える「車体更新(しゃたいこうしん)」の実施です。これにより、見た目は当時最新の5000形などに近い、洗練されたデザインへと生まれ変わりました。
この更新工事を担当したのは、主に日本車輌製造でした。新しい車体は、窓枠にアルミニウムを使用したアルミサッシが採用され、気密性や遮音性が大幅に向上しました。また、室内も明るいデコラ板仕上げになり、以前の暗いイメージを一新しました。この時、塗装も黄色と青色のラインが入った、当時の小田急標準カラーに変更されています。
中身は古い走行機器を使いつつも、外見はピカピカの新型車両に見えるというこの手法は、当時の私鉄でよく見られた合理的なアップグレード方法でした。利用者からは「新しい電車が来た」と喜ばれ、1800形の寿命を大きく延ばすことにつながりました。
高性能車との共存と運用の変化
1800形が車体更新を受けて活躍していた頃、小田急には2400形(HE車)や2600形(NHE車)といった、より加速性能や静粛性に優れた「高性能車」が次々と登場していました。1800形はこれらと比較すると、昔ながらの「吊り掛け駆動(つりかけくどう)」という方式で走っていたため、走行音や振動が大きいという特徴がありました。
吊り掛け駆動方式とは?
モーターを車軸に直接引っ掛けて駆動させる、古くからある方式です。加速時に「グオー」という重厚な音が響くのが特徴で、現代の電車ではほとんど見られなくなった懐かしい音です。
性能差がある車両同士を同じダイヤで走らせるのは難しい課題でしたが、1800形は主に各駅停車や準急として運用されることで、そのパワーを活かしました。また、高性能車が増えても、1800形の強固な車体と安定した性能は、ラッシュ時の輸送力を維持する上で欠かせない戦力であり続けました。
走行性能と技術的な特徴を深掘り

小田急1800形の魅力は、その力強い走りにあります。見た目が新しくなっても、足回りは国鉄譲りの頑強なメカニズムが守り抜かれました。ここでは、鉄道ファンを魅了してやまない、1800形の技術的な側面について解説します。専門的な用語も交えながら、その「音」と「走り」の秘密に迫りましょう。
重厚な音を響かせるMT30形主電動機
1800形の心臓部であるモーターには、国鉄の大型車両で使われていた「MT30形」などが採用されていました。このモーターは非常に大出力で、当時の小田急が所有していた小型車両とは比較にならないほどのパワーを誇っていました。重たい車体に満員の乗客を乗せても、ぐいぐいと加速する力強さがありました。
加速する際に響く独特の「唸り」は、1800形の代名詞でもありました。新宿駅の地下ホームに鳴り響く低いモーター音は、日常の風景の一部として多くの人の耳に残っています。この豪快な音こそが、1800形が「ロクサン」の血を引いていることを証明する最大の特徴でした。
また、この大出力モーターを支えるために、制御装置や抵抗器なども大型のものが搭載されていました。床下から立ち上る熱気や、ブレーキをかけた時の匂いなど、五感で「機械」を感じさせる車両だったと言えるでしょう。
力強さを支えたDT13形台車
モーターのパワーを線路に伝える「台車(だいしゃ)」もまた、1800形の走りを象徴する部品です。主に使われていたのは「DT13形」と呼ばれる鋳鋼製の重厚な台車でした。この台車は非常に頑丈で、多少の線路の凹凸も力技で乗り越えていくような、独特の乗り心地を生み出していました。
現代の電車のような空気バネは採用されておらず、金属製のバネが使われていたため、走行中の揺れはダイレクトに伝わってきました。しかし、その「ガタゴト」という振動が、逆に力強さを感じさせる要素でもありました。重量のある台車は安定感があり、高速走行時でもどっしりとした構えを崩しませんでした。
鉄道模型の世界でも、このDT13形台車を履いた1800形は人気が高く、その武骨な造形が多くのファンを引きつけています。まさに、質実剛健を形にしたような足回りと言えるでしょう。
ブレーキシステムと運転士の苦労
1800形は走行性能だけでなく、ブレーキシステムにも特徴がありました。初期の頃は、空気を圧縮してその力でブレーキをかける「自動空気ブレーキ」が主流でした。これは現代の電気指令式ブレーキとは異なり、運転士の指先の感覚でブレーキの強さを細かく調整する必要がある難しいシステムでした。
特に1800形のような大型車両は慣性が大きいため、ピタッとホームの停止位置に合わせるには高度な熟練技術が求められました。小田急の運転士たちにとって、1800形をスムーズに操ることは一種のステータスでもあったと言われています。重たいブレーキ弁を操作し、絶妙なタイミングで空気を抜く操作は、まさに職人芸でした。
後の改造でブレーキ性能も向上しましたが、最後まで「古いメカを操る楽しさと難しさ」が同居した車両であり続けました。乗務員の中には、そのじゃじゃ馬ぶりを愛した人も多かったそうです。
小田急1800形の主なスペック
・製造初年:1946年(国鉄割当車として)
・全長:20,000mm
・制御方式:電磁空気単位スイッチ式
・主電動機出力:128kW(MT30)
・主な運用:小田急全線(後に多摩線中心)
沿線の風景と1800形の活躍シーン

小田急1800形は、小田原線の急行から各駅停車、さらには江ノ島線や新しく開通した多摩線まで、実に幅広いシーンで活躍しました。沿線の風景が刻一刻と変化していく中で、1800形がどのような役割を果たしてきたのかを振り返ってみましょう。そこには、地域の発展と共に歩んだ車両の姿があります。
急行から各駅停車までこなした万能選手
導入初期の1800形は、その輸送力を活かして新宿発の急行列車として華々しく活躍しました。当時はまだ特急ロマンスカーも現在ほど本数が多くなかったため、1800形は長距離移動を支える主力でした。大きな車体に揺られながら、相模川を渡り小田原を目指す旅路は、当時の旅行客にとっても忘れられない体験だったでしょう。
その後、より高速な新型車両が増えるにつれて、1800形の主戦場は準急や各駅停車へと移っていきました。それでも、4両や6両と編成を組み替えながら、ラッシュ時の都心へと向かうサラリーマンや学生を運び続けました。どんなに混雑していても、びくともしない頑丈な車体は頼もしい存在でした。
駅に停車するたびに大勢の乗客を飲み込み、再び力強い音を立てて加速していく姿は、まさに「通勤電車の鏡」とも言える働きぶりでした。派手さはありませんが、日々の生活を支える縁の下の力持ちとして、沿線住民に親しまれていました。
多摩線開通と1800形の最後の輝き
1974年(昭和49年)、小田急多摩線が開通しました。新しく開発された多摩ニュータウンへのアクセス路線として期待されたこの路線で、1800形は初期の主役を務めることになります。多摩線は勾配(坂道)が多い路線でしたが、1800形が持つ大出力モーターはその環境にも適していました。
開通当時の多摩線は、まだ周囲に自然が多く残る閑静な風景が広がっていました。そこに現れる近代的な高架線と、古豪1800形の組み合わせは、独特のコントラストを生んでいました。新宿からの直通急行としても運用され、新しい街へと人々を運ぶ重要な任務を果たしました。
多摩センター駅の広いホームに、1800形の重厚な駆動音が響き渡る光景は、鉄道ファンにとって格好の撮影スポットとなりました。新路線の期待感と、ベテラン車両の安心感が融合した、1800形にとって最後の華やかな舞台だったと言えます。
通勤ラッシュを支えた詰め込みの美学
高度経済成長期の小田急線は、日本でも有数の混雑路線として知られていました。毎朝、限界まで乗客が詰め込まれる中、1800形の広々とした車内空間は大きな強みとなりました。もともと国鉄の混雑対策車として設計されたルーツが、ここで最大限に活かされたのです。
ドア周りのスペースが広く取られていたため、乗降がスムーズに行われ、列車の遅延を最小限に抑えることができました。また、天井が高く圧迫感が少なかったことも、過酷な通勤環境においては小さな救いとなっていたかもしれません。当時の新聞やニュース映像でも、満員の1800形が新宿駅に滑り込んでくる様子が度々紹介されていました。
1800形が黙々と人を運び続けたことで、沿線の住宅開発はさらに進み、街は大きく成長していきました。現在の小田急沿線の発展があるのは、この無骨な実力車がラッシュを支え切ったからだと言っても過言ではありません。
引退後の第2の人生と筑豊電気鉄道への譲渡

1981年(昭和56年)、老朽化と車両の近代化の波に押され、小田急1800形はついに全車両が惜しまれつつ引退しました。しかし、物語はここで終わりではありません。この頑丈な車両に目をつけた鉄道会社が遠く九州にありました。1800形が辿った、意外な第2の人生について詳しく見ていきましょう。
小田急からの引退と惜しまれたラストラン
引退間際の1800形は、主に多摩線や本線の各駅停車として運用されていました。すでに小田急の主力は1000形や8000形といった最新鋭の車両に代わっていましたが、1800形が来ると「まだ頑張っているな」と声をかけるファンも多かったそうです。最後の数年間は、車体に「さよなら」のヘッドマークを掲げて走る姿も見られました。
ラストランの日には、新宿駅や沿線の有名撮影地に多くの鉄道ファンが集まり、その勇姿をカメラに収めました。吊り掛けモーターの爆音を響かせて走り去る後ろ姿を見送り、ひとつの時代が終わったことを実感した人も少なくありません。小田急一筋で約35年間走り続けた功績は、計り知れないものがありました。
廃車となった車両の多くは解体されましたが、その中で数両だけが、海を越えて九州へと運ばれる幸運を手にしました。これが、鉄道ファンの間で語り継がれる「1800形の転身」です。
九州の地へ!筑豊電気鉄道2000形への転生
小田急を去った1800形の車体は、福岡県の筑豊電気鉄道へと譲渡されました。しかし、そのままの姿で走ったわけではありません。驚くべきことに、巨大な20メートル級の車体を短くカットし、3両編成を繋ぎ合わせた「路面電車タイプの連接車」へと大改造されたのです。形式名は「2000形」と改められました。
かつて新宿の過酷なラッシュを捌いていた車両が、今度は九州の地で路面電車として余生を過ごすことになったのは、非常に興味深いエピソードです。改造後の姿は一見すると元の1800形とは思えないほどコンパクトでしたが、窓の形や内装の随所に、小田急時代の面影が色濃く残っていました。
保存車両とファンの心に残る記憶
筑豊電気鉄道に渡った車両たちも、時代の流れと共に徐々に新型車両へと置き換えられ、現在ではほとんどが引退してしまいました。残念ながら、小田急1800形としての完全な姿で保存されている車両は存在しません。しかし、筑豊電鉄の2000形として一部の車両が大切に保管されていた時期もあり、ファンの聖地となっていました。
また、車両そのものはなくなっても、当時の写真や映像、そして実際に乗車した人々の記憶の中に、1800形は生き続けています。特に、あの重厚な走行音を懐かしむ声は今でも多く、YouTubeなどの動画サイトでは、当時の音源を収録したコンテンツが根強い人気を誇っています。
小田急の歴史を語る上で欠かせない「ロクサン」の末裔。その力強い走りは、戦後日本の復興と成長を象徴する、まさに鉄道の歴史そのものだったと言えるでしょう。1800形が走った軌跡は、これからも語り継がれていくはずです。
まとめ:小田急1800形が残した大きな功績
小田急1800形は、戦後の混乱から立ち上がるための「割当車両」という特異な出自を持ちながら、小田急電鉄の屋台骨を長年支え続けた名車です。20メートル級という大型の車体を導入するために行われた駅や線路の改良は、結果としてその後の小田急の輸送力を飛躍的に高める礎となりました。
吊り掛け駆動方式による重厚な走行音や、武骨ながらも車体更新で磨き上げられた外観は、昭和の小田急線を象徴する風景でした。急行から各駅停車まであらゆる役割をこなし、多摩線の開通にも貢献したその姿は、沿線住民にとって非常に身近な存在だったと言えます。
引退後に九州の筑豊電気鉄道で路面電車として再出発したエピソードも含め、これほどまでにドラマチックな歴史を持つ車両は他に類を見ません。私たちが今日、当たり前のように利用している快適な小田急線のサービスの裏には、かつて泥臭く、しかし力強く走り抜けた1800形の奮闘があったことを忘れてはなりません。



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